2017年1月22日日曜日

第13 一高医学部薬学科のウサギ狩り

薬学雑誌192号198頁(1898) 千葉県通信欄から
 
明治19年の中学校令により全国に高等中学校が5つ、また各都道府県に尋常中学が作られた。前者は後のいわゆる旧制高校、後者は旧制中学である。
高等中学校は、大学予科のほかに学部設置が認められており,本郷弥生町に本部があった一高は付属の医学部を千葉猪鼻台(亥鼻)に置き,薬学科も明治23年併設された.

その8年後,立春も過ぎ,良く晴れた冬の一日,薬学科はこんなことをしていた.

「去る10日は寒余の降雪にて都鄙いずことも銀世界に化し知りぬれば,この好機を利用して兎狩りを催さんものと協議一決,翌11日学生の有志は先発として千葉町を去る2里余東南に方れる釜取村にと赴きぬ」

提案,即決、元気が良い。
鎌取村は外房線鎌取駅付近だろうか。6.5㎞、1時間20分である。

「その日は払暁いずれも得意の粉紫にて肩には猟銃ならずば張網の結束せるなどの品々携えられて一同は薬学部構内へと集合して7時というに出発したりき.
古屋、織田、松山の3教官は紀元節の拝賀を了りて直ちに式衣を解き、倶々徒歩に便なる軽装に支度なし、先発隊に追ふて猟場へと急行したり」

当時、紀元節式典は参加自由だったようだ。御真影を奉じて大変だったのは昭和に入ってからなのか。

「やがて鎌取村に至るや、はるかに喧囂駆逐の声を耳にす.余ら3人一茅屋について憩う間もなく、先発隊の面々は二三の猟師とともに大なる一兎を得て来たるに会ふ。ここに於いて衆皆,快と呼び,再び他の猟場にと歩をとり、駆逐すること以前の如し (中略) 
既にして日は西山に春き暮色昏々たり。此に於て一同帰途を急ぐの途,千葉町を距る1里ばかりなる生実山なんと呼ぶ処にて三度猟し,ここに一兎を獲て衆の意気は愈々揚り,路を鉄道線路にとり曾我町を経て帰校したり。時に夕陽は全く没し余の帰宅するや時辰八時を報ず」

生実山は、今の千葉市中央区生実町、鎌取駅と蘇我駅の中間にある。
当時漢字は色々な字を当てている。

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