2017年1月9日月曜日

第95 医薬分業をめぐる闘い・2

第95話 第一回全国薬剤師懇親会(下)
薬学雑誌1890年度(明治23年)p279-283

 この懇親会の16年前、明治7年に公布された「医制」は、医師、薬舗主の免許制度、開業試験などを規定したものである。そして、「医師たる者は自ら薬をひさぐことを禁ず」と医薬分業が謳われていた。
 しかし医師と言えば漢方医が大部分で、薬の調製こそ業務であり収入源であった。また調剤すべき薬舗主が絶対的に少なかった当時は、現実問題として分業は不可能であり、薬は従来通り医師が与えた。
 医制自体も、法律というよりむしろ衛生行政の方針を示した訓令に近いもので、そのため、個別の内容に関する達や布達などがそれぞれ発され、徐々に医制の内容が施行されていった。薬事に関しては、明治22年3月公布、23年3月施行の法律第10号・薬品営業並薬品取扱規則(いわゆる薬律)である。

 「薬律」は医薬分業を謳う「医制」に従うはずであったが、付則43条で医師は自ら診療する患者の処方箋に限り調合できること、すなわち医師の調剤権を認め、薬剤師の職権をほとんど無にしてしまった。この条文は薬律の原案にはなかったが、長谷川泰ら医系の起草委員によって挿入されたという。
 唯一の薬系委員の柴田承桂は医制の原則を盾に反対した。しかし医師4万人に対し薬剤師は2573人(明治23年5月、薬学雑誌98号282頁)しかいない。現実問題として分業は不可能であったことから、「当分の間」という字句を添えることで、承諾せざるを得なかった。ところが公布された薬律には「当分の間」が削除されていたのである。つまり医師の調剤権は永久に認められてしまった。

 これに怒って集まったのがタイトルの懇親会である。
日本薬剤師会はまだなかった。指導者層であった東京薬剤師会正副会頭の下山順一郎、雨宮綾太郎が
「満腔の熱血を吐露したるは頗る会員に感動を与えたるが如し」。雨宮は「義務ここに増せば権利これに伴うは社会の大則なるに(・・・略)利益は遠く、天際にあってこれを握るあたわず。ゆえに(薬剤師は)各々手を分かちて之を握取する手段を講ずべし」
と抑揚頓挫たくみに1時間長演説する。

 東大の下山は、業権握取の一点に凝固するは賢明でないとし、ドイツ薬剤師の学識の高さを述べ、我が国の薬剤師の学識は医師の数段下にあるとする。
 「少数の薄学者が多数の博学者に当たってこれを攻め壊さんとするは甚だ不得策」とし、「いやしくも多少の資産ある者はその子弟、親族を大学に入れ」一般薬剤師の地位を高め「十分兵食を蓄へて而して運動せば、俎豆(そとう)の間に業権を握るに至らん」と述べた。

 彼らは3年後に日本薬剤師会を作り、医薬分業を目指して法律改正の運動を続ける。東大薬学部は今すっかり研究組織になってしまったが、昔は薬剤師会の中心だった。薬剤師と研究者が同じ資質を要求された時代だった。

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