2017年1月9日月曜日

第96 医薬分業をめぐる闘い・3

第96話 薬剤師連合と医師会の争い
薬学雑誌 1891(明治24)年 848-851、932-946頁など

明治22年公布、23年施行の法律第10号・薬品営業並薬品取扱規則(いわゆる薬律)は、医薬分業を規定するはずだった。しかし分業に反対する医師たちは、自らの調剤権を正式に認めさせた。その結果、薬剤師に処方箋がまわって来る望みはなくなった(94話95話)。

そこで薬剤師たちは来る明治24年の第2回議会で「薬律」改正を目指す。(22年大日本帝国憲法発布、23年第1回帝国議会という時代)。24年8月、大阪に日本薬剤師連合臨時会が開かれた。30府県から161名が集まり、内務大臣が適当と認める地においては明治27年1月から分業を実施するよう議会に提案することを決定した。

また11月21日、東京薬剤師会会頭・雨宮綾太郎は、東京医会会頭・佐藤進に照会文を送る。議会に改正案を出すから医師会に賛成してほしいという内容だったが、返事はなかった。しかし12月8日の毎日新聞によれば、東京の医師たちは大いに議論し、内務大臣と議会に対し分業不可の建議を為すこと決めたという。分業反対の理由は、薬を出さない診断だけでは「3回見舞るべきところも2回もしくは1回に減ずることとなり治療粗悪に流れること、および全国医師の総数6万8千人なるも洋方家は6千人に過ぎず、洋方家のみを薬舗と分業せしめんとするは不可なり」と。(薬誌1891年1227頁)。

そんな中12月8日、島田三郎ら6議員は薬律改正案を第2回帝国議会に提出する。
賛成者には犬養毅ら59名の議員があり可決は間違いなしと思われた。毎日新聞12月17日は、「医薬分業に関する東京医会の恐慌」と題して、長谷川泰を中心とし防御策を講じている様を報じた。12月25日の同紙には深川、神田、日本橋、浅草など各区の医師たちが分業反対の請願書を衆議院に提出したとある。(薬誌1892年83頁)。しかし議会は12月25日突如として解散し、議案は廃案となった。

その後も薬剤師らは議会運動を続ける。
明治26年の第5回議会(医師の代表である長谷川泰議員らの反対にあい上程できず)、第8回議会(上程は果たしたものの再び長谷川議員の反対にあい72対95で否決)、第9回(議案提出撤回)、第10回(否決)と苦闘する。明治32年の第13回議会は53対115という予想外の大差で否決され、薬剤師側に疲労が出てくる。明治33年、中心で活動していた東大助教授の丹羽藤吉郎がベルリン留学を命じられたこともあり、運動は下火になった。

再び改正案を提出したのは明治45年の第28回帝国議会。
否決された後、上程した綾部議員は「医薬分業は明治維新以来、政府の基本方針であったはずだがいつになったら実施するつもりか」と尋ねた。すると政府はその場で答えず、文書によって「我が国の患者受療の実況に鑑み、政府においては現在のところ法令をもって之を強制する意思はない」と返答した。(『薬と日本人』山崎幹夫)。期せずして公式見解が発せられたことで、明治23年以来の分業運動は終了し、薬剤師たちは二度と法律改正を目指して立つことはなかった。

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