2017年3月5日日曜日

ヴァルトゼーミュラー世界図の日本

『第四の大陸』は、ヨーロッパ人から見て、歴史的に世界がどう広がっていったかを描く。

古代ギリシャ人は世界を球体と考えていたが、中世ヨーロッパ人の世界は逆に狭まり、地中海周辺だけだった。
それが13世紀にモンゴル人が襲来してエルサレム以遠の東方世界が現実となる。
そしてアフリカ西岸を航海することで南方が拡大し、西方への航海で新世界に出会う。


この本の各章の扉には、その章に最も関係する地域を、ヴァルトゼーミュラー世界図から抜き出して拡大、示している。
例えば第3章ではマルコ・ポーロの東方見聞録の意義が書かれる。
だから扉にはバルトゼ―ミュラーらがCHATAYと書いた中国の部分図を載せた。

マルコポーロは、ジパングの話を述べた後「インドの島々」を通過しながら読者を変幻自在の旅に連れて行ったのだが、この海はマッパ・ムンディの外縁に描かれてきたものである。そしてインドの海はイングランドの海につながっている。すなわち彼の話はヨーロッパ人の目を海洋に向かわせた。
続く第4章では『マンデヴィル東方旅行記』が世界を一周し、『聖ブレンダンの航海』もアイルランドから西に向かい大陸に着いたと語る。ヨーロッパ人はこうした書物で地球が丸く、中国東部とジパングが、イングランドの西にあると考えていく。
だから第4章〝大洋の向こう“の扉は、中国東部と日本の部分図が示されている。


マルコ・ポーロから200年後、1507年のヨーロッパ人は極東をどのように見ていたか、この地図を詳しく見るため、バルトぜ―ミュラー世界図、すなわちアメリカ議会図書館のサイトを覗いてみた。


拡大すると中央に確かに zipangri と書いてある。
しかし英語でないせいもあって、他の文字はさっぱり分からない。

極東の地形が不正確であるのは、マルコポーロ以来、ヨーロッパ人がほとんど訪れなかったからである。1507年と言えば、彼らは長いブランクの後、ようやくインド西岸にたどり着いたところであり、ポルトガル人が種子島に来たのは1543年である。

島の中央をCANCRI(かに座、北回帰線)が通っているから、緯度的には台湾あたりに描かれている。


経度は265度あたりだが、この地図の0度はポルトガル沖である。
プトレマイオスは世界の最西端とした幸福諸島を経度0としたが、ヴァルトゼーミュラー図も同じようだ。

実際は、アゾレス諸島、カナリア諸島は西経20度あたりにあり、日本(東経135度)までは155度しかない。つまりヴァルトゼーミュラー図は日本をずいぶん東に書いてある。その結果、ジパング東岸からカリフォルニアまでわずか10度。非常に太平洋が狭い。
しかしそれまでの地図が東西の端をごまかしていたのを360度、地球の隅から隅まで描いた地図として画期的であった。長い間、地上の楽園や神話の世界が地球のどこか、東の端、西の端にあると思われていたのが、この地図でそれらの存在する場所がなくなったのである。


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