2017年4月16日日曜日

第103 駒込神明町と慶松勝左衛門

千駄木菜園 総目次



薬学昔むかし
薬学雑誌 190211月号付録 (会員名簿)から

我が家は文京区千駄木5丁目だが、明治40年の地図を見ると(ネットのgoo地図)、本郷区駒込動坂町365番となっている。364番には北原白秋がいた。この町域は動坂を中心に広がり、坂の上に伝染病患者を隔離する「避病院」があった。今の都立駒込病院である。

明治35年の薬学会会員名簿をみながら、近所に誰がいたか調べてみた。



病院のすぐ西に天祖神社(神明社)があり、こちらは駒込神明町といった。神明町442番の那須種造は分からないが、同427番に井上圓治(明治30年東大薬卒)388番地に慶松勝左衛門がいた。


慶松家は、室町幕府10代将軍足利義材の子、慶松丸に始まる。
慶松丸は7歳のとき応仁の乱で衰微した将軍家から越前朝倉家に預けられ領地も与えられたが、武人とはならず海外貿易に従事する商人となった(慶松太郎三郎貞廣)。4代目重廣が京都に戻り(初代五右衛門)、嫡男重次が五右衛門家から分かれ初代勝左衛門となった。3代勝左衛門は医院と薬舗を開業(慶松衛生堂)、9代勝左衛門で明治維新を迎える。(根本曾代子、慶松勝左衛門伝)


9代目は薬業先進地の京都にあって、京都府薬舗主会長に推され、京都薬学研究会を結成、洋薬の勉強や医薬分業運動に力を入れた。その長男、勝太郎は明治9年に生まれ、明治23年に府立一中(現洛北高)に入学した。この年、新制度による第一回薬剤師試験に合格、神童と言われた。京都の三高は大学予科がなかったため、金沢の四高に進むが卒業間近に父が死去(薬誌1898p307p642)、10代勝左衛門となる。

9月東大薬学科に進むも入学者は彼一人であった。
可愛らしい顔だが、持ち前の負けん気の強さと優秀な頭脳で、常に近藤平三郎、石津利作ら上級生と行動を共にした。当時薬学科は最も不振の時期で3年生に3人、二年生5人、全体で9人しかいなかった。翌年、翌々年は入学者ゼロで最後の1年は彼一人であった。


1901(明治34)年卒業後は下山教授の助手となるも、明治37年東京衛生試験所に月給100円、近いうちに留学させるという好条件で呼ばれた。しかし明治40年、31歳で満州都督府中央試験所に所長として招かれる。
日露戦役後の満州全土の保健衛生だけでなく、産出される石炭、鉱石類、大豆、繊維などの化学試験を統括した。さらにベンジン抽出による大豆油の生産、また豊富な石炭あるいは油頁岩(オイルセール)を原料とする人造石油について研究した。

留学を挟みサルバルサン国産化に関わった経緯から第一製薬の創立に尽力、1922年には丹羽藤吉郎のあとを継いで薬品製造学講座の教授に就任、帝大評議員、日本薬学会会頭、京都帝大薬学科創設事務嘱託、戦時下には医薬品統制会社の社長に就任した。貴族院議員、日本薬剤師会会長にもなった人物である。


さて本題に戻る。
明治35年慶松は結婚して駒込神明町388番地、新築平屋の借家で新生活をスタートした。今の文京区本駒込3丁目37番、富士神社の近くである。
家賃1150銭のところ、助手の月給が35円であり、下山教授に窮状を訴えた。下山は校長をしていた東京薬学校の講師を紹介する。1時間1円(のち2円)で週3回。
大学出勤前に上野桜木に寄るのだが、当時は市電がなかった。暗いうちに起きて駆けつけたらしい。


不忍通りも言問通りもないころ、彼がどこを歩いたか、明治40年の地図を見ながら考えた。最短距離は、天祖神社、駒込病院の脇を抜け、動坂上から団子坂上まで、今の千駄木小学校前、保健所通りを辿る。
すなわち我が家の前を歩いていたらしい。そこから団子坂を下り三崎坂を上がって東京薬学校に通った。早朝講義が終わると右に寺々を見ながら細い坂道を根津に下り、弥生坂を上がって大学に急いだのだろう。あるいは清水坂を不忍池に降りて、池之端門から入ったのかもしれない。


左上が駒込避病院、中央が団子坂下、右下が東京薬学校。

神明町388番から動坂町365の前を経て東京薬学校までは2.227分。
さらにそこから東大薬学まで1.923分。
彼はこの倍くらいの速さで歩いた気がする。



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2 件のコメント:

  1. 始められたばかりの菜園ブログと思いきや、充実ぶりに唖然!!

    「駒込神明町と慶松勝左衛門」、古地図をたどるとリアルにタイムスリップいたしました。     真喜子

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  2. 佐藤さん
    慶松の上野桜木町時代の住所がわかったので、そのうち書きます。ファルマシアのときと違って文字制限もないし、写真も入れられるので便利です。

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