2017年5月28日日曜日

谷中墓地2 佐藤泰然の墓さがし、代々の善甫、良甫



5月27日、笹の雪のあと、谷中墓地の佐藤尚中の墓に行ったので、その足で養父、佐藤泰然の墓に行く。つい最近行ったばかりだが、写真を撮らなかったので、また行くのだ。

かつて泰然の墓は芋坂と御隠殿坂のあいだ、線路脇の崖の上にあった。

私がここらを歩き始めたのは、15年くらい前だろうか。
就職以来、職住とも埼玉にどっぷりつかり、谷中、千駄木と縁がなくなっていたが、ダンスで日暮里サニーホール(ホテル・ラングウッド)へはしばしば来ていた。駅の反対側にある墓地もたまに訪ねた。
20年以上経ち学生時代とは違って歴史が好きになっていた。
あるとき、線路際の崖上を歩いていたとき、更地に小さな案内板が刺さっていた。
佐藤泰然の墓が移動した旨と、新しい番地も書いてあったが、メモらなかった。
数年後、千駄木へ転居した2013年に来たら、スカイツリーが見えたが、板はなくなっていた。

つい最近、日暮里駅北口から階段を上がってすぐのところに標柱を見つけた。
順天堂始祖佐藤泰然先生墓所入口とある。
ああ、ここに移ってきたのね、と中に進むと立派な一角がありました。


入り口に佐藤泰然墓という新しい標柱と
その奥、つまり墓域の右手前に「佐藤家」という新しい墓石がある。
平成7年建立、御子孫が入っておられるようだ。

佐藤家墓所の一番奥の正面に石柱が立つ。フェンスの向こうはセブンイレブン。

柱は古く、台のコンクリートが新しい。いかにも移転したという感じ。
佐藤信圭/室 瀧子 之墓 とある。

泰然は通称、信圭(のぶかど)が名前である。
1804年 - 明治5(1872)年4月10日没

泰然の墓の手前、右側にも石柱がある。
彫が崩れて読みにくいが
 前侍醫法眼松本戴 墓
 同 夫人三浦禄子
とある。

後ろに回ると
戴 明治10年2月6日卒
禄 同 14年11月6日卒
とあった。
    


すなわち松本良甫(1806-1877)である。
幕府御典医・蘭方医師。名、載。字、成伯。

親しかった泰然の実子順之助を養子にとった。のちの良順である。
一方、泰然は山口甫僊の次男を養子にとった(佐藤尚中)。

正面に向かって左、つまり良甫の向かいに墓とは思えぬ石碑がある。
見ると6人の名が記されていて、最初は
 圓桂院殿善甫法眼源興正 元禄八年四月六日卒
とあり、他もすべて善甫法眼、源姓である。(宇田源氏)
最後の人だけ善を良にかえて、
 覚性院殿良甫源善賢 文政九年八月三十日
すなわち、いわゆる我々が知る松本良甫の父である。
彼だけ法眼でないのは、最後の善甫が奥医師を改易され、初代良甫は町医者となったからである。


その手前に立つ松本銈は、松本良順の長男、佐藤泰然の孫。

ベルリン大学でホフマンに近代化学を学び、明治8年(1875)日本人で初めてドイツ化学界に論文を発表。留学7年にして病気となり帰国、すぐに没する。29歳だった。(1850-1879)

養父、実父と子、(さらには松本家6代の先祖)の墓がありながら、良順本人の墓だけがないところが面白い。
しかしこうしてみると、ここは松本家の墓だったような気がする。
平成7年に泰然が来て正面中央を明け渡したようにも見えるが。

佐藤家の墓地の裏、つまり御殿坂のすぐ上はまだ空き地が少しある。
東京都は無縁墓を整理しても新たに分譲せず、公園として整備するらしいと聞いたが、なかなか進まないだろう。
あきらめたのか、今年も都は分譲するらしいが、こういうところは残してほしいものだ。

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