2017年7月17日月曜日

第24 最初の博士号から11年後の薬学博士

薬学雑誌1899年 380頁,516頁

「末は博士か大臣か」という句は今すっかり聞かないが,この句が始めて使われた明治の頃,博士は,後世とは比べ物にならないくらい重かった.では,薬学博士の第1号はいつか?
明治32年薬誌4月号の叙任・辞令欄にあった.

帝国大学評議会ニ於テ学位ヲ授クヘキ学力アリト認メタル者 
薬学博士         正六位勲六等 佐賀県士族  田原良純
帝国大学総長ノ推薦ニ依ル者
薬学博士    帝国大学医科大学教授正五位理学博士  長井長義
薬学博士    帝国大学医科大学教授正五位勲六等  下山順一郎
薬学博士    帝国大学医科大学教授正五位勲六等   丹波敬三
三月二十七日文部省 三月二十八日官報

古代ではなく現代につながる博士号というのは、1888年(明治21)5月に学位令(勅命第13号 明治20年)の規定により、次の5種の博士の学位に対し25名が日本で初めて授与されたことに始まる。
文学博士: 加藤弘之、重野安繹、外山正一、小中村清矩、島田重禮
法学博士: 箕作麟祥、鳩山和夫、穂積陳重、菊地武夫、田尻稲次郎
医学博士: 池田謙斎、橋本綱常、高木兼寛、三宅秀、大澤謙二
理学博士: 矢田部良吉、伊藤圭介、菊池大麓、山川健次郎、長井長義
工学博士: 松本荘一郎、古市公威、原口要、長谷川芳之助、志田林三郎

有名人ばかりであり、一言書きたくなってしまう人ばかりであるが、それは別の機会に。

明治20年に医科大学薬学科教授に就任した下山、丹波らにも、その後、医学博士号授与の通達があった.(中央医事週報、明治26年4月23日号に見つけた)
しかし,医薬分業が難航し,大学内においても生徒数が少なく(入学者ゼロの年もあった)薬学科の独立に危機感をもっていた当時、
「ここで個人の名誉だけのために医学博士号を受け先例を残したら薬学の独立は永久に葬られるであろう.薬学博士でなくてはだめだ」 (根本曾代子・丹波敬三伝)
と抵抗した。しかし大学条例は変わらず,申し合わせて辞退したいきさつがある.

明治31年、ようやく学位令が改正された。

朕学位令改正ノ件ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム
 御名 御璽
明治三十一年十二月九日
   文部大臣 伯爵樺山資紀
勅令第三百四十四号
学位令
第一条 学位ハ法学博士、医学博士、薬学博士、工学博士、文学博士、理学博士、農学博士、林学博士及獣医学博士ノ九種トス
(略)

さて薬誌翌月の東京通信には初の薬学博士を祝う会の模様あり.乾杯のタイミングがちょっと今と違う。
4月22日,帝国ホテルにて一般参加者は3時より続々入場,4時頃4博士来席せられたるを以って一同記念撮影,余興は円遊の落語二席あり.それより劉喨たる楽隊の音にて食堂に案内せり。名にしあふ東京第一のホテルしかのみならず華麗の挿花を所々に飾りつけ最も優美なり.食事終わりてシャンパン酒を酌み,資生堂福原氏の首唱にて天皇皇后万歳三唱,衆員これに和し,この間楽隊は君が代を奏した.また博士万歳も三唱,祝辞,答礼,休憩室での談話,散会せしは午後9時過ぎなり.

この帝国ホテル祝賀会(薬学会主催?)の出席者名簿を数えたら85人であった。このほかにも、薬学雑誌の東京通信欄には2つの4博士出席の祝賀会があった。

ひとつは学位授与式の後すぐの4月1日麹町区富士見町の富士見軒で、主催は薬学小集(ヲヅメ)員諸氏という。
薬学小集とは、この記事以外で見たことはないが、小集楽(おずめ)、すなわち橋のたもとで男女が集まって歌舞し遊んだ集会(広辞苑)から来ているのだろうか。
出席者24人とは4博士のほかに桜井,古屋、島田,齋藤,平山,溝口,大前,酒井,丹羽,片山,高橋(秀),高橋(三),山田,町田,曲淵、池口,大島,江田,上野,永井。製薬士、薬学士からなる当時の薬学界の中心メンバーである.(薬学雑誌、同p397)

もう一つは4月24日 上野、伊豫紋楼。
これは次の25話に書く。

根本曾代子「日本の薬学」には精養軒で祝賀会が開かれたとあったが、薬学雑誌には見当たらなかった.

なお学位授与式は文部省にて
3月27日午前10時 樺山文部大臣、柏田同次官,各博士会会長が列席して行われた。
総数は101人 内訳は
大学院に入り定規の試験を経たるもの3人
論文を提出して学位を請求したるもの 7人
博士会において学位を授くべき学識ありと認めたるもの 62名
帝国大学総長の推薦によるもの 29名
であった(p397)。


千駄木菜園 総目次

0 件のコメント:

コメントを投稿