2017年8月14日月曜日

第30 台湾統治時代の阿片

台湾からの地区通信・・・当地の自殺とアヘン中毒
薬学雑誌1900年度(明治33年) 1045頁

台湾は1895年日清戦争の結果,日本に編入された.
かの地は砂糖だけでなく,医薬品やセルロイドの原料として期待されていた樟脳の世界的産地であり,下山順一郎はじめ多くの薬学関係者が渡り殖産興業に貢献した.
薬学会の地区通信委員に任命されたものはこうした事情や,現地の珍しい医薬風俗などを薬誌に寄稿した.

編入5年後の台北通信は,自殺事情を書いている.
要約すると,台湾では内地のような入水,自刃,首吊り等で死亡する者まれにして,百人が百人中,阿片烟膏や阿片糞灰を吸飲する.6-7分で致死するが,目下『製薬所』製造品は混和物があるためか,効力少なく,救命の機会が増えている.方法は以下の薬品を用いるが,いずれも吐き出させることを目的とする.
1.蓮鬚,
2.胆帆,
3.苦参,これらは薬店で買える.
面白いものは
4.金魚を生のまま擦り,油または砂糖の汁に混ぜて飲ます.
5.柿渋を何椀となく飲ます.
6.コア菜の青汁.これは内地の高菜に似て普段漬物にしているが,助かったあとは一生これが食べられなくなるという.

 また,台湾婦人の阿片吸飲者が出産すると乳児は必ず中毒になっている.生母が阿片を吸飲していた時刻になると大人のように流涙咳喇を催し,乳を与えても飲まず,ただ泣く.母が烟筒にて阿片を焼き煙を口に含んで嬰児の口に吹き込めば満足して眠る.阿片を与える量はだんだん減らして生後1週間から10日かけて廃止する.

 この記事に続く基隆通信は,ペスト患者の発生や寄港した病院船近江丸の薬学関係者の消息などを伝えている.

 台湾海峡にうかぶ日本海軍の馬公要港部の薬剤官が送る澎湖島通信には,飲み水確保の苦労,水質検査結果などが記されていた.

今のファルマシア地区通信欄とは大分違う.当時の会員はめったなことで自分の府県から出ることがなかった。ニュースといっても内容,スピードからして噂話に近かった時代,この欄は貴重なものだった.

台湾が日本領になってから、蔓延していた阿片を一掃するのにはだいぶ苦労したようだ。現在、朝鮮と違って、台湾の対日感情が良いのはとてもうれしい。

なお、歴代台湾総督を書くと
樺山資紀 :1895年5月 – 1896年6月
桂太郎 :1896年6月 – 1896年10月
乃木希典:1896年10月 – 1898年2月
児玉源太郎:1898年2月 – 1906年4月
佐久間左馬太:1906年4月 – 1915年5月
安東貞美:1915年5月 – 1918年6月
明石元二郎:1918年6月 – 1919年10月

日露戦争の満州軍総参謀長を務めた児玉は、あの時台湾総督だった。衛生行政を得意とした後藤新平を民政局長にした。

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