2017年10月9日月曜日

第58 住友金属と別子銅山

住友・別子銅山のこと
薬学雑誌 1903年度(明治36年) p728-732

物事には序列がある。
ーーー住友グループで一番力を持つのは、住友金属であるーーー
2011年ファルマシア「薬学昔むかし」に書いたときから大分たつので、
念のため確認しようと住友グループのホームページをみたら、筆頭は住友化学になっている。だいぶ下のほうに住友金属鉱山がある。
あれっ?
実は、グループ筆頭企業だった住友金属工業は、2012年に新日鉄と合併し、新日鉄住金となった。「住友」の二文字が消え、新日鉄主体の新会社は、住友グループ(白水会)から離脱した。住友金属鉱山は別会社である。

住友金属が住友グループで最も力を持っていたというのは、
元禄時代に開かれた伊予の別子銅山が住友グループの前身で,ここから精錬,輸送,電気,機械,商取引,金融と広がり,住友発展の基となったからだ.

幕府の長崎貿易の代金支払いが銀から銅に代わると,銅が最大の輸出品になり,別子銅山は貿易や明治以降のわが国近代化に大きな役割を果たした.皇居前広場の楠正成像は,1900年に別子の銅で献納されたものである.

明治時代まで医薬は、草木金石であり、鉱物も薬学者の興味、守備範囲であった。
5ページにもわたる薬学雑誌の記事は鉱山沿革から始まる.
それによると、もともと寛永年間より大阪屋何某が立川銅山を経営していたが,元禄3年(1690),住友の田向重右衛門が隣接する山に入り,採掘開始したという.元禄8年,両坑が偶然貫通し,協議の末,住友が譲り受け,以後発展を続ける.

明治に入ると採掘の機械化が進み,鉄道,電信電話が敷設され,水力発電による電灯がともるなど,文明開化の最先端をいった.各坑道の延長合計は明治35年頃で5867mだったと書いてある.(ちなみに,鉱山は操業が即ち坑道伸長だから,1973年の閉山時には全長700km,深さ海抜マイナス1000m――わが国で人間が到達した最深部――に達していた).

鉱石は,よもぎ鉑,石地上鉑,そばかわ鉑など11種類あって,それぞれの銅,鉄,硫黄,硅酸,アルミニウムの含量が表になっている.どの鉱石も鉄と硫黄が多く含まれ,銅含量は1%(しまがく鉑)から18%(上鉑)くらい.また,精錬方法の解説もあり,各段階,すなわち生鉱(銅7%),焼鈹(34%),稠密鈹(75%),粗銅(98%),精製銅(99.7%)の分析表もあるところが薬学雑誌らしい.

鉱山には住友による「地方稀に見るところの良き病院」があり,「私立小学校」も別子山のほか,精錬所のあった新居浜,四阪島にも1つずつあった.
ただし別子山小学校の生徒は「草木の名を知らず,雀とは如何なるものなるや,米麦は如何なるところに生ずるやをも」知らなかった.なぜなら,「亜硫酸ガスのため,一の草木なく,付近山上,一面の沙漠のごとき故なり」.

住友鉱山は四国の山中にあるのかと思ったが、海の近くである。住友グループが作った銅山記念館は新居浜駅から3.7㎞、産業遺産の多く残るテーマパーク、マイントピアも6㎞ほど。ネットには鉱山で育った方のHPもあり、
http://ww9.tiki.ne.jp/~jf5ffl/tonaru.htm
いつか行ってみたい場所である。


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