2017年12月4日月曜日

第101 伊予紋楼、岡埜、伊香保

第101話 明治の薬学人が使った宴会場
薬学雑誌1903(明治36)年度1313頁,1910年11月号B2など

第87話で明治時代の薬学会年会の懇親会に使われた会場をいくつか紹介した.
神田明神開花楼,不忍池長蛇亭,神田三河町三河屋,神田淡路町万代軒,麹町区富士見軒,上野精養軒である.
今回は,他に宴会で使われた会場をみてみる.

明治32年4月,医科大学薬学科の学生ら若者20人が,初の薬学博士誕生を祝い長井下山丹波田原の四博士を招待したのは,上野・伊豫紋楼。第25話では宴会の様子(余興)を書いたので、店そのものについて書いておく。

ここは伊予大洲の6万石、加藤家が上京する時ついてきた家来(料理人?) が始めたという.非常に格式高い料理屋で,横山大観らお大尽が芸者を連れていったとか.場所は下谷同朋町。
国会図書館デジタルライブラリ―
大正元年。右のほうにある。

今の御徒町駅の西側,松坂屋の南館と立体駐車場になっているあたりで,当時の面影は全くない.大学からは徒歩15分くらいか.

明治36年12月,東大薬化学教室の送別会は根岸・岡埜で開かれた(第25話).
根岸は今の鶯谷駅の東一帯で,当時は上野の山の向こう側,風流な場所だった.正岡子規,中村不折,陸奥宗光や薬学科第一講座教授下山順一郎も住んでいる.
庭園が広い料亭で,本店が近くの根岸坂本町にあり,こちらは甘味で有名だった.

羽二重団子の6世澤野庄五郎氏の話によると(ネット)
このはな園といい、庭の見える座敷で汁粉をすすり、料理を食べて句会、その他集会に利用されたとある。

ここと和菓子の岡埜栄泉との関係はどうなっているのか.
明治初めに浅草駒形から上野,根岸,本郷三丁目,森川,竹早町の5軒に分かれたが(みな親戚筋、岡野姓),上野店以外は廃業したとある.
その根岸店だろうか。

すると現在、谷中や小石川にある岡埜栄泉はすべて上野からのれん分けしたものだろうか。あるいは根岸や竹早が廃業する前にのれん分けしたものだろうか。
竹隆庵岡埜(お出かけブログ)でも書いたが、その支店である谷中店で修業しても岡埜栄泉と名乗れたようであるから、店が多いのもうなづける。

最後に上野鶯坂下の伊香保.
明治43年,東京薬学校出身者會(同窓会?)が組織され,10月15日発会式がここで開かれた.参加者130人,規約の制定,幹事・評議員の推薦を終え,丹波博士は専門学校昇格の希望を兼ねた祝詞を,飯盛ドクトルは下山校長代理の祝詞を述べた.さらに薬事新聞記者,会員の演説あり,また落語,講談,丸一太神楽など余興のあと,酒宴に移った.

鶯坂は上野公園から根岸に降りる坂.新坂ともいう。今は途中に鶯谷駅南口がある.
伊香保は敷地3,000坪,木造3階建て,建坪500坪.園内には台地の上より引いた泉水を擁し,上野の山を借景とする中の島に赤橋かかる東洋随一の料亭と言われた.
上野桜木の東京薬学校から近い.
地域雑誌「谷根千」27号から(明治34年)
となりに同じような温泉料亭「志保原」も見える。伊香保と同じように塩原温泉から鉱水を運んできたのだろうか。
しかし志保原のほうが大きい。
前述6世澤野庄五郎氏の話だと、塩原温泉のあたりが伊香保で、塩原は「新坂を挟んで」、「スター東京の前、ワールドのあたり」にあったとあり地図と矛盾する。(このあたり不明)

スター東京は2003年まであった大型キャバレーだそうだ。このころ新坂降りて右(東)のダンスホール「新世紀」に通っていたのだが、スター東京の記憶が全くない。

ちなみに、この坂下の温泉料亭二軒までは根岸でなく上野桜木だった。


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