2018年1月28日日曜日

第77 長井長義、静岡での講演録

薬物工業学に就いて:理学博士長井長義君述
薬学雑誌1897年度10月号別冊

時代劇を観ていて,ホントはどんな言葉をしゃべっていたのかな,なんて思うことがある.明治の頃はどうだったか? 
幸いなことに薬誌には講演録がいくつか載っている.
これが本当に話された言葉かどうか?
講演録は、繰り返しが多かったり,余計な接続語なども書いてあるから,比較的忠実に話し言葉を文章にしてあると思われる.テープレコーダーのない時代は有能な速記者が多くいた。言文不一致の時代の話し言葉をある程度推測できる.

紹介するのは,長井会頭が明治30年8月,静岡で行ったもの.
薬物展覧会出席のため,平山常議員,西崎,永井,大島各学士とともに熊本に行く途中立ち寄った.当時は,長井会頭らが出張すると聞けば,各地の関係者が歓迎の宴席を設け,講演を依頼した.

「満堂の諸君,不肖長義はじめ今回,日本薬学会を代表して一同九州に参る途次,昨日ご当地に到着いたしまして以来,ご当地の学芸に関係ある文武の貴顕紳士医師薬業家その他有志諸君より望外の御待遇に与り,且つ今日は我が薬学の発達を計るがため,公会演説を設けられましたるに付き,この大暑の砌(みぎり),またご多用にも拘わらず,如此(かくのごと)き御大勢ご出席下さりまして,我が薬学の発達にご賛同下されたるご好意に対し,失礼でございますが此の席より御礼申し上げます」.

こう始まった講演は,日清戦争の大勝利を引用し,維新以後30年で日本が東洋の強国になったのは,西洋諸国の文物を輸入したことによって成し遂げたからだと説く.
しかし,小銃や軍艦,大砲を買うために,我が同胞の農,商,工で儲けた金を外国に出さねばならなかったと彼は述べた.

「旧きを廃するとともに新規なことを輸入するには,それに連帯して輸入するものが年々多くなってくる(略).
そこで何を日本で輸出するかと云ふのに,そのうち金額の主座を占めておりますものは、申すまでもなく,当県で製せらるる処のもの,すなわち茶または絹,これが主座を占めまして (略),私は静岡を通過するごとに茶業の発達を喜ぶのです」.

「薬業家も御当県下の茶業者諸君の如く,薬草を培養し,あるいは薬品を製造して新国産を興さねばならぬ.ところが日本はドウ云ふ訳でございましたか,大学薬学科の内には薬品を工業的に製造する方法を教授する道がございませぬ.大学の内には工業化学の部門がございまして,これには化学に関するところの工芸を教えております.それでもって薬品製造のことを教えておることと思っておりましたが,これは丸で別なのである」.

意外と現代語に近い.
博士はこのとき会頭に就任して10年目,52歳であった.肖像画を思い浮かべれば,肉声が聞こえてくるようである.

北海道の安い魚油魚臘を輸出して,代わりに高価なろうそくを輸入している現状を嘆き,今後は天産物に学理を応用し人工を加えたものを輸出しなければならないと話を継ぐ.
明治28年の医薬品輸入高は460万円だった.

「この考えを薬物の工業にも応用されましたならば,現に460万円のうちの大部分は日本に残ることになり,後にはまたわが国から外国に輸出するようになりますれば,彼方の金を此方に取ることができる訳合いになるのでございます.」
と,薬物工業学なるものが国家の利益になる学問であると訴える.

当時,大学の薬学は、
「ただ医薬に使ひまする処の薬物の良否を鑑別し,あるいは調剤する技術あるいは飲食物の分析を教ふると云ふことのみに」留まっており,学生少なく,就職先もあまりなかったが,
「繰り返して申せば,薬学も工業化学と同様に,直接営利的の効力のある学科でございますから,子弟に学問を修めさせるに当たり,その方へ御奨励になっても決してご心配ないことでございまする」.

1897年は19世紀末,エールリヒのサルバルサンやバイエル社のサルファ剤が登場する前である.つまり,医薬品とは新規有機化合物ではなく,海草からとるヨード剤など無機化合物,コールタールからとる石炭酸,あるいはキニーネなど植物抽出物が多かった.
この種の医薬品の国産化はまもなく可能となり,長井博士の期待通りにはなった.

しかし第二次大戦後から,世界はサルファ剤など新規有機化合物の医薬品を作り始める.
日本は再び引き離されたが,皮肉なことに,日本の薬学における有機合成化学は大発展した.特許は物質でなく製法であったから外国医薬品の新合成法を探すためだ.

そして今日では,国産の優れた医薬品も増えてきた.
今長井博士が存命なら,どのような講演をされるだろう.
お褒めになるだろうか,ご苦言を呈されるだろうか.

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