2018年2月5日月曜日

第89 米沢のはっか栽培史

置賜郡(山形米沢地方)のハッカ
薬学雑誌1897年度(明治30年)p798-801

薄荷の栽培について、皆どれだけ知っているだろう?
小学校だか中学の社会で、北海道の北見では、テンサイとはっかの栽培が行われていると習った記憶がある。

薬学雑誌に日本におけるはっかの栽培史があった。
「薄荷に就いて 置賜郡に於ける薄荷の沿革」と題する4頁の論文である。

まず上杉鷹山が出てくる。
彼は童門冬二の同名本(1983)で一躍有名になったが、それ以前はあまり聞いたことがなかった。まして明治のころは誰にも知られていないと思っていたが、こんなところで出会うとは。

「旧米沢藩主、上杉鷹山公が殖産事業について深く鼓舞奨励せられたることは洽く世の知るところなるが、薬品に関してもまた幾多の遺功を垂れ給へり。
 公は薬草に経験ある士を江戸表より招聘し吾妻山中の植物を調査せしめたるに、数多くの薬草を発見せり。
 次に会津より人参の種を取り寄せ(略)」。

この論文に寄れば、薄荷(ミント)は換金作物として安政年間に岡山や広島で始まったらしい。
しかし明治初期にかけて主産地は山形に移った。山形南部が盛んになったのは、このように鷹山以来、薬草栽培が盛んであったからである。

論文には歴史、栽培法、成分(油・脳)の製造法が書かれている。
著者は肥料が大事だという。山形東村山郡の薄荷が苦く香り乏しいのは荏粕を使っているため、岡山県産に異臭がするのは魚を肥料に使っているため、と推理する。置賜郡は人尿を使っているから良いのだと。

水蒸気蒸留によって薄荷油を抽出し、ここから薄荷脳とよばれる複合結晶を得る。
食品、生活用品だけでなく、現在も薬局方にあるように医薬品としても重要であった。当時は欧米でメントールの需要が高かった。しかし外国産薄荷油はメントール含量少なく、また英独仏では日本から苗を取り寄せても年々その成分含量が低下し栽培断念、日本から薄荷脳を輸入せざるを得なかった。当時イギリス産が最上とされたが、著者は明治26年に米国博覧会に出品、優等賞を得たという。

その後、山形県人などの移住により明治時代に主産地は北見、網走地方に移る。
(ここから我々の知る社会の教科書に載るのだ)
戦前にホクレンが北見工場を建設し、一時世界生産量の7割を占めた。戦後も朝鮮戦争の影響でアメリカ向け輸出が増え、作付面積、生産が拡大したが、1960年代以降は外国産の安価な薄荷(インド、ブラジル産や合成品)に押され、輸入自由化のあと80年代に工場を閉鎖した。現在は数軒が栽培するのみという。

TRPM8というメントールの受容体が発見され、これは同時に低温を感知することが分かった。はっかがスース―するのは、気のせいではなかったのである。
この受容体と頻尿(寒さによる膀胱過活動)や痛覚異常(糖尿病などで痛覚過敏)の関係が研究されているが、メントール類の新しい適応症、利用法が見つかっても、日本で薄荷の栽培が復活することはないだろう。

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