2018年3月8日木曜日

伊奈町が伊奈忠次のPRをしている

今の勤務先は、埼玉県北足立郡伊奈町小室にある。
大宮からニューシャトルで20分なのだが、郡、町というくらい、森と畑が多い。

その伊奈町の役場が、この3月1日、伊奈忠次のPR映像(→クリック)を作って宣伝を始めた。
自治体が町おこしみたいにイベントするのは賛成ではないのだが、よくある観光案内と違って、まあまあ面白い。

(伊奈町と私)

結婚して東大宮の公団・尾山台団地の2DKに6年住み、1989年、二人目が生まれるとき、伊奈町小室に家を買った。
バブルのころでJR沿線は大宮以北でも高くて手が出ず、当時は不便なニューシャトル沿線の、かつ低地の中古住宅であった。新幹線の橋げたの上をモノレールのような小さな車両が1時間に2本しか走っていなかった。

北足立郡伊奈町といっても、埼玉の人さえ何処だか知らず、蓮田と上尾の中間だ、と説明した。(私も家を探すまで知らなかった)。
ここで二人目、三人目が生まれ、中山住宅という104軒ある地区の町内会長をやったり、KDD研修所の森で花見やピクニックをしたり。
水害で床下浸水も経験したが、私は30代、家族が増えて成長する一番楽しかったころだ。
1991年11月 KDDの森

伊奈町に7年住んで、1996年大宮市指扇に引っ越し、そして2011年文京区千駄木に家を買う。
伊奈は遠い記憶のかなた、二度と来ることはないと思っていたが、2013年、転職して、なんと再び伊奈町に。
しかも職場はあのKDDの森の中、駅も同じ志久。
この広い関東平野でよりによってまた来るとは。
1992、町から全戸に配布されたパンフレット航空写真から。
 当時のKDD研修所。今は大学。

(さて、伊奈忠次のこと)

平成2年、町制20年記念で町から各戸に配られた「ふるさと伊奈」などによれば、

伊奈氏は信州伊那の豪族。
忠基の代に三河の松平広忠(家康の父)に仕える。
忠基の子が忠家、その子が忠次(1550~1610 はじめは熊蔵家次といった)

幼いころから秀才の誉れ高く、家康に仕えた。
北条滅亡の天正18年(1590年)、家康が関東へ入ると、関八州の諸税掌握と市川、松戸、栗橋の3関所の守備を命じられ、武蔵足立郡の小室(現伊奈町)、鴻巣に1万石を賜った。

この年、小室宿(現伊奈町大字小室字丸の内)に陣屋を構える。奥州道と中山道の中間に位置し、関東平野の中心という交通至便なところにありながら、南に原宿沼、東西に湿地を持つ高台という素晴らしい立地である。
2018 小さくなったが原市沼や斜面の緑が分かる。
東西約350m、南北約750m

家康の天下統一のあとは備前守に任じられ、代官頭(のちに関東郡代と称さる)となり徳川直轄領の管理を任された。
検地、測量、河川改修と築堤(桶川の備前堤など各地に名が残る)、新田開発と、100万石の増収を成し遂げたと言われる。

忠次のあと長男忠政がつぐも34歳で死去、
子の忠勝は幼く、忠次の次男忠治が27歳で代官頭を継ぐ。
忠治は既に勘定方で赤芝山(現川口市赤山)に陣屋を構え7000石を領していた。

一方、忠勝は9歳で死去、1万3000石は没収され、小室藩は消滅、しかし伊奈忠勝家は父たちの功績から幼い弟の忠隆が継ぎ、小室郷1186石の旗本となる。
のちに忠隆(1616-1650)は小室から江戸に移り住み、小室陣屋は消滅した。

さて、丸山駅近くの陣屋跡は、住んでいた当時、フキノトウを探しにきたとき偶然入った。原市沼あたりはノビルはあったが、フキはなかった。

伊奈町に転職してから、2015年また訪ねた。
2015-03-16 西側からの入口と案内板
ここは昔、芝生だったような気がする。
2015-03-16
旧陣屋内は畑と民家。
孤立した高台のため、ギニア高地ではないが、交通もなく、周辺の宅地、畑とは違う独特の雰囲気だった。この道は当時の屋敷絵図(→クリック)にもある。

なお、忠治も、父忠次、兄忠政を継いで関東郡代として河川改修などに携わり、とくに利根川東遷は彼の代に完成した。
鬼怒川と小貝川の分流工事や下総国、常陸国一帯の築堤など、かれの業績をたたえた伊奈神社がつくば市にある。

2006年合併し、つくばみらい市になって消滅した筑波郡伊奈町(1954伊奈村)の町名は、忠次ではなく、忠治に由来する。


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