2017年1月9日月曜日

第94 医薬分業をめぐる闘い・1

第94話 第一回全国薬剤師懇親会(上)
薬学雑誌1890年度(明治23年)p279-283

懇親会というものは宴会、つまり会員の親睦を深めるための立食パーティーなどを想像するが、明治23年4月に開かれたものは5日間にわたり、その様子を伝える薬誌の記事も5ページに及んだ。この会はなんであったか?

これは全国から250名ほどの薬剤師が、
「互いに気脈を通じて薬学の進歩・業権の拡張を計る目的をもって」
4月3日に日本橋区蠣売町(今の蛎殻町)、友楽館に集まったのである。
5日間とも半日は講演会や各府県の委員協議会、半日は見学会で、医科大学第一第二医院の薬局、薬学教室、内務省衛生試験所、大日本製薬などを参観した。
それにしても会の目的「業権の拡張」とは何か? プログラムの演題を見れば分かるかもしれない。こういうタイトルの話が並んでいた。
 ・今後薬剤師の覚悟(笠井鉦太郎)、
 ・医師の製薬について(綾部惣兵衛)、
 ・薬剤の価格益騰貴せり(川村注)、
 ・薬剤師の位置(福田福太郎)、
 ・臨機の策無かるべからず(青木庄吉)、
 ・薬剤師の心色如何(近藤平八郎)、
 ・薬剤師社会の恐慌(足立長久)、
 ・薬剤師諸氏に望む(伊佐地慶四郎)、
 ・薬剤師の耐忍を論ず(川村清三郎)、
 ・薬剤師の実情を訴ふ(小阪定次郎)、
 ・法律第十号と薬剤師(荻原勘助)、
 ・定業薬剤師一定の目標を掲ぐること(亀田伊右衛門)、
 ・間接に医薬分業を速からしむるの法(木俣文四郎)、
  ・・・以下略。

近代薬事法の原典となる法律第10号・薬品営業並薬品取扱規則(いわゆる薬律)は、明治22年3月に公布され、翌23年3月から施行された。ここには9条で「薬剤師にあらざれば薬局を開設することを得ず」と明記されていたものの、付則43条で医師は自ら診療する患者の処方箋に限り調合、販売することが許され、全国の薬剤師が期待していた医薬分業が否定されてしまったのである。

このとき日本薬剤師会はまだなかった。この懇親会は、薬律施行の翌月、怒りを持った薬剤師たちが集まったものであり、ここに日本薬剤師連合会なるものを組織すること、また3年ごとに懇親会を開くことを決めた。
そして3年後の明治26年、指導者層の下山、丹羽、雨宮、福原らはこの連合会を改組、会長に華族の正親町実正を担ぎ、発足させたものが日本薬剤師会である。

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